2020東京オリンピックを前にして各競技選手選考の動きが活発になって来ました。
同時に候補選手を抱える企業にとっても一喜一憂、慌ただしい時期になってきたのではないでしょうか。
ところで岡山に天満屋という百貨店があります。
天満屋と言えば岡山では老舗の百貨店で戦後の岡山の発展と共に成長してきました。
実はその天満屋、知る人ぞ知る陸上界の名門企業なのです。
岡山天満屋女子陸上部とは
天満屋の女子陸上競技部は1992年の4月1日に創部され、武冨豊氏をヘッドコーチに迎え、その年の11月1日開催された第3回淡路島女子駅伝で本格デビューを果たし、2時間02分40秒で第4位という成績を収めました。
その後主に駅伝で実力を養い、1994年にはオスロで開催された世界ハーフマラソンに山口衛里・小松ゆかりの両選手を出場させました。
武富氏は1996年に監督に就任し、2000年のシドニーオリンピックに山口衛里選手、2004年のアテネオリンピックに坂本直子選手、2008年の北京オリンピックに中村友梨香選手、2012年のロンドンオリンピックに重友梨佐選手とオリンピックに4大会連続でマラソン代表選手を送り出しています。
武富氏が名将と呼ばれるとともに天満屋女子陸上部は名門と言われる所以です。
ひとつの企業でオリンピックに4大会連続で代表を送り込むなんて凄いことですね。
今回はこの武富監督に焦点を当ててみたいと思います。
武富豊監督の略歴
武富 豊(たけとみ ゆたか)氏は1954年2月16日生まれ、佐賀県出身です。
佐賀県立多久工業高等学校時代に全国高等学校総合体育大会陸上競技大会(インターハイ)5000mに出場し、予選会となる北九州総体で4位に入賞して全国大会出場を決めるほどの選手でした。
1972年神戸製鋼所に入社、そのときのチームメートに喜多秀喜氏らがいました。
喜多氏は後に幻のオリンピックと言われたモスクワオリンピックのマラソン代表でした。
悲運の代表でした。
武富氏はその後1978年にボストンマラソンで9位入賞、1979年に別府大分毎日マラソンで2位、翌1980年に同じく別府大分毎日マラソンで優勝という輝かしい実績を残されています。
1984年には全日本実業団30キロロードレースで優勝の後、神戸製鋼所陸上部コーチを経て1992年に天満屋のヘッドコーチに就任しました。
オリンピック選手を育てるコツ
武富氏は機会あるごとにマスコミから「オリンピック選手を育てるコツはなんですか。」という質問を受けるそうです。
あるインタビューでは
「そういうものがあるわけがない。言えるのは、選手は一人一人、体も心も異なることだ。その子にあった練習方法があり、型にはめてはいけない。」
と明確に答えています。
具体的にはマラソンをやりたいと言って入社してきた選手には基本的に要望に応じるようしているそうです。
ただし、それも基本的な体力が備わって来てからの話だということです。
それまでにじっくりと体を作り、マラソンという目標に向かっての明確な意識付けができてからの本格的指導スタートということです。
オリンピック4大会連続代表輩出という武富監督の指導を受けたくて天満屋女子陸上部の門を叩く選手は多いと聞きます。
しかし、憧れだけで天満屋陸上部に入部してきてもすぐにはマラソンデビューできないということですね。
地元岡山との関わり
また、武富監督はチームと地元・岡山との関わりについても語っています。
「天満屋は地域密着の方針で会社と現場の考えが一致している。地域と一緒に陸上の魅力を育てていく意識で取り組んでいる。チームを長く存続させるために、支援してくれる人がいる地元に根付く必要があると思う。」
と述べています。
地元との連携を目指し、2006年には総合型地域スポーツクラブ「桃太郎夢クラブ」を立ち上げたり、岡山大学陸上部とも提携し、週2回のペースで子どもや市民を対象にしたマラソン教室も開いています。
確かに今や天満屋陸上部は地元の市民・県民の心の支えになっています。
同時に地域の人々の気持ちが選手に届くことがチームを支える原動力になっているのでしょうね。
これからも武富監督のもと多くの有望ランナーが集い、またオリンピック選手が生まれ育ってくることでしょう。
今後の天満屋女子陸上部の活躍が期待されます。
頑張れ!天満屋女子陸上部!